幻の川崎運河をめぐる徘徊<桜堀→川崎河港水門>
09年のとある日。川崎のとある場所にとある物を見に行った処、このような掲示がありました。
大正末の川崎に「幻の大運河計画」が有ったそうです。当時は水運が物流の中心で、川崎の商工業地区での効率的な運輸の実現とそれによる発展を目指したとか。
合わせて表示されていた古地図によると、多摩川から海に向けて川崎を縦断するような大規模な運河が計画されていたようです(赤▼から右に引かれた白い線。(I)-(I)間)
(川崎の運河計画自体は合わせて3本)。しかし「社会情勢の変化により」計画は中止し今に至るとのこと。
なるほどと思いました、思いましたからには、『ならばその「運河」を巡って、歩いてみよう』です。
今回は初めから無かった「運河の痕跡」を探して川崎を彷徨います。運河の筋を辿ることで何か見えるかとも思いましたから。
結果を先に書けば「何も見えませんでした」けども。
より大きな地図で 川崎運河 を表示
上記古地図から、現在の地図の道に「だいたい」当てはめてコースを設定しました。
引いた線自体は実際に歩いた道筋です。
こちらがスタート地点です。google地図での下、ピンクのピン、海側です。柵の向こうは……
運河。「桜堀運河」です。この運河も今では500mほどで終わっています。
ところで上記古地図を良く見たら判りますが、この運河は「幻の運河計画」とはまた別の物です。冒頭で書いたとおりで当時は水運が物流の中心でしたので、川崎には多くの運河が走っていました。
ですが何もない処から始めるにも始めようがありませんでしたから、今回はこちらを基点としています。
※なお事前の下調べが甘くて「桜堀自体も幻の運河の痕跡と思い込んで基点にした」などという可能性は考えないようにお願いします。(記事まとめている最中に気がついて良かったです、はい)
釣り船が多く停まっていました。
その運河も丁度首都高が横切る手前で途切れていますが、その正面から道が始まっています。その位置関係から、この道自体も「この運河の」痕跡と考えて良いでしょう。まずはこの道を進みます。
この辺は「桜本」です(桜堀で、桜本。「桜」にゆかりのある地名?)。桜本はコリアンタウンで有名ですね。
上記地図にも載っている桜川公園には
路面電車が保存されていました。私自身は川崎に来たのはここ拾年くらいの話で、川崎の路面電車については何も知りませんけども。
スタートから真っ直ぐ進んだ道も500m越えたくらいに五つ角に到着。
「水門通り」です。
「昔この辺に流れていた川が海に至る所に水門があったと言うことです。つまり運河とは関係有りません。
古地図で見た限りでは、このあたりまで桜堀は続いていたようですが。
後は、多摩川の方向へまっすぐ、ふらふらと進むだけ。
一応多摩川方向へ、道なりには進んでいますけども。このあたりはもう普通の町中です。
大きな通りを越えます。この辺から本来の「運河予定地」に入っているはずですが、そんな痕跡は何も見えません。
さらに普通の住宅地を抜けていくと
やがて正面にヤマダ電機が見えてきました。このヤマダ電機は古地図上ではほぼ運河の上(側)に建っていますから、ここまでここを目標に進んできました。
でも、本当の最終目標はその背後。
これです。
水門です。
「川崎河港水門」です。
ちなみに、12時45分に桜堀を出発して水門到着は14時、1時間15分の徘徊でした。グーグルマップの表示では行程5.9キロとなっていましたので、時速4.7kmほどと私の巡航速度での踏破でした。
この水門は今回本当の目的である「幻の運河」の入り口として昭和三年に完成。運河計画が頓挫した後もそのまま水門として残され今に至っています。
建設当時から、隣は味の素(当時は鈴木商店)の工場です。
水門建設の際には鈴木商店(味の素)が出資したとのこと。鈴木商店(味の素)が出荷にこの水路を使うという前提だったそうです。
そのためもあってか、現在も水門周辺は味の素の管理下です。
水門自体は登録有形文化財に指定されています。
実際に建設された運河は200mほどで現在は80mほどが残っているだけですが、運河自体は砂利の荷揚げなどで今でも活用されています。
処で始めた観た方は水門の上に乗っている二つのブロッコリが気になったのではないかとは思いますけど……いえ、違います。川崎の名産品である「梨・桃・葡萄」をモチーフとしているそうです。葡萄は兎も角、他はそう言われてもなんだかよく判りませんけども。
そして、その装飾の下に堂々と掲げられているのは「川崎市章」です。こっちは明白ですはっきり判ります。好きです川崎、愛のまち。
まとめ:
運河の跡を追うということで始めたものの、実際には「もう少し」なんらかの痕跡が残っているのかと思っていました。しかし、実際にはほぼ何も無し。計画自体が昭和18年、1943年に廃止されたと言うことですしその時点で運河予定地にはすでに工場や住宅が建てられていたと言うことですからそれも当然で、寧ろ70年近く経った今でも両端の運河が残っているのが奇跡的なのかもしれません。
(実のところは単純に「運河の痕跡」を追うだけだったら、川崎でもこっちなどは航空写真からも痕跡が見えるくらいではっきり残っているようです)
結果、この記事自体は『まぁ要するに川崎河港水門はかっこいい』という話で終わってしまいました。
まぁ実際『川崎河港水門はかっこいい』です。「なにをいまさら」などと言われようともかっこいいのは間違いない。工場の無骨かつ機能美溢れる姿もかっこいいのでしょうけど、私はこういう昔のかっこよさの方が好きです。
そしてこのブログでは今後も、私から見た「かっこいい川崎」に注目していくつもりです。
これでなんとかまとまったかな? この項は、ここまでです。
おまけ:
以前コネタ城に投稿した「港町13番地」も、この川崎河港水門のすぐ近くです。
参考文献:
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/museum/pdf/03itou.pdf
・講座「川崎の都市計画と運河計画」
http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/tama/know/property/03.htm
・多摩川の名脇役 「河港水門」
http://portal.nifty.com/cs/catalog/portal_koneta/detail/1.htm?aid=090226094079
・川崎市指定文化財紹介「川崎河港水門」
http://ja.wikipedia.org/wiki/川崎河港水門
・wikipedia:川崎河港水門
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Comments
水門通りは二ヶ領用水の末端の一つ川崎掘の支流である新川(今の新川通)の水門が桜掘にあったのでつけられた名前です。日本鋼管ができて通勤者のために暗渠となりその名残が大島ポンプ場です。
新川は今の川崎駅周辺の水はけの悪い沼地を耕作地に変えるために作られた堀でした。
「桜」はこの一帯の地主の家に当時は珍しかった桜の木があったからだそうです。新川は大島3丁目あたりにあった八幡橋からは桜掘と呼ばれたそうです。
Posted by: 通りすがり | 2013/03/19 01:14